〜だそう、や、〜のだとか、みたいな表現が気になる

みなさま、こんにちは。おくむら(@nori_broccoli)です。

情報量ゼロのもの見るな!と言えばそれまでの話かもしれません。いきなり強く出ていますが、最近適当にテレビ番組みたいなものを見ていてもブログみたいなものを読んでいても、「〜のだそう」とか「〜のだとか」みたいな伝聞調にすらなっていないような表現が散見され、そういう表現が出てくるたびになぜだか残念な気持ちになってしまいます。

「〜のだそう」とか言われても、「私、別に興味ないんだけどこの人がこんなこと言ってるよ」みたいな何とも言えない不快感があるのです。私にとってはどうでも良いけど、まぁ、そういうこともあるんじゃないかな、「知らんけど!」的な何かを感じます。関西の人間が何か話していて最後に「知らんけど」というのは決まり文句みたいなもので別に気にもならないのですが、例えばテレビで何かを紹介したり、ブログで取り上げたりするのに、「〜のだそう」とか言われても、確証ないならイチイチ言うなよ…って思ってしまいます。

そもそも「〜のだとか」と言われて、「私全然理解してないんですけど」感しか漂わないのに、どうしてそれを紹介しようと思ったのか、すごく疑問に思います。きちんと裏付け調査をしたり、言い切ることができる内容を責任持って言ってほしいのに、自分に責任はないけどこの人はこんなこと言ってるみたいですよ、なんてことを聞いて誰が嬉しいのでしょうか。言葉の表現としても「〜のだとか」で終わられると気持ち悪さも残ります。

政治家のようにひたすらごまかし続けて核心部分には触れないように答えないようにすることに終始する人たちならともかく(いや、認めているわけではないですよ)、情報を伝えようとする人たちが、伝聞調のような曖昧な表現で、確証のないことを伝えてくる意図が全く分かりません。そういう番組や記事を見て何を得たいのか、見ている人たちの気持ちも今ひとつ分かりません。

日本人の国民性なのかどうかは知りませんが、断定的に話をすることを「否」とする向きがあって、何でも曖昧に言い切らずにはぐらかすような話し方がますます気になるようになってきました。結局何一つ伝わっていないのに会議が終わる、そんな感覚です。え、今の話で誰が何をしてどうすることになったの?というのが一切分からない。どうしてこう、明確にすることを嫌うのでしょうか。

テレビ番組のように話しているだけならまだしも、文面として残って後から何度も読み返される文章で、そんなに曖昧にすることで良いことがあるのかよく分かりません。読み手としては情報を得たいから読んでいるはずで、全部曖昧な伝聞調だったらそのサイトから離れますよね?

もちろん、共感したくて読むこともあると思いますが、共感するポイントになるところでさえ、「〜のだそう」などと言ってあやふやになってしまっているのはマイナスでしかないように思います。

こういうはぐらかすようなことを言う人の心理が本当に分からないです。自信がないけどその仕事はしたい、けど責任は取りたくないみたいなめちゃくちゃなことを突き詰めると、責任転嫁しつつ美味しいとこだけ持っていこうとする、まさにこんな話し方になっていくのでしょうか。「〜のだそう」や「〜のだとか」が出てきたら情報量ゼロ認定ですぐに離脱するのですが、この手のものを最後まで消費したら得るものはあるのでしょうか。

それを奥ゆかしさとするのかはさておきとして、若い文化に馴染めなくなってきている中年親父のボヤきなのかもしれません。若い文化なのか都市より文化なのかも知りませんけど。

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